メッセージ 『波伝谷に生きる人びと』上映実行委員より(縦断上映会にあたって)
野村一史(のむら・かずふみ)
ドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』との出会いは今年の5月のことだが、我妻監督との出会いはかれこれ10年ほど前になる。
大学の民俗学研究会というサークルで1年先輩だった我妻さんと知り合い、そこで3件の民俗調査をご一緒させてもらった。それらの調査はそれぞれ調査報告書としてまとめられているが、そのうちの1冊には『鍛冶屋の町の守り神―南鍛冶町三宝荒神社の2年間―』という映画のシナリオが付属する。その映画は、ある神社の祭礼とその祭礼に関わる町の人びとを追いかけた105分の作品であり、その調査を通して、人の営みを映像に撮る我妻さんをわずかながらも間近で見させてもらった。
我妻さんは、一緒に調査をしていて気づくとそこの住民のように入り込んでいることがある。人から招かれ、
行事に加わり、最後は「この後もつきあえ」となる。誠実に対象へと向かう姿勢が、人びとに受け入れられるのかもしれない。
『波伝谷に生きる人びと』はそんな我妻さんだからこそ撮影できたのだと私は思う。登場する人物は、カメラに向かっているという緊張もてらいもなく、その飾らない素の言葉には自然体のままの力強さがある。みんな我妻さんに「あんただからいうが」という感じに本音をぶちまけているようだ。
そこには地域のこと、家族のこと、自分のことが過去、現在、未来と縦横無尽に語られ、地域を構成する時間や空間や人間が地元の人の語る言葉のままで表現されている。その1つ1つの語りの魅力や奥深さを丁寧に撮影したこの映画のために、私は上映実行委員を引き受けた。
映画の中に描かれる、かつて地域の政治を司った契約講を構成する旧家と新興の家の社会的、経済的格差と、その格差が漁業の発展を促しながらも海が貧困化する矛盾。産業構造の変化による陸の生業の衰退と弱体化する契約講、その結果としての住民の新たな連帯…このストーリーにあるのは、地域の歴史である以上に日本の近現代史の1場面でもある。
稀有な漁村の1事例などというものにとどまらず、地域や程度の差こそあれ、どこの土地にもあるはずの歴史的な変遷を、波伝谷を通して描き出している。そこで浮き彫りにされる少子高齢化や過疎化など地域の共同体や家の担い手の問題は、どこの地域にも共通する課題ではないか。
そうした背景をもつ契約講の衰退がもたらした地域の新たな連帯は、集落に存在したさまざまな格差が解消
され、家々の関係がこれまでと違ったフラットなものとなりつつあることも同時に示している。契約講の家しか担えなかった獅子舞のお囃子が、後継者育成を目的に若い世代なら誰でも行えるのはその最たるものだ。
それでも契約講は、新興の家に協力を仰ぎつつも従来の枠組みの中で存続するところが難しいのだが、伝統的な共同体が変化していく過程は、このようなゆるやかなものでなければうまくはいかないだろう。そしてその変化の途上で震災が発生し、その先にどんな可能性があったのかは残念ながらもはや分からない。
けれど、その営みの変化の中で、1つ1つの課題に向き合い、考え、行動しようとする人びとの姿勢や言葉には、地域や共同体というものを考える大切なものがあるのではないかと私は思う。
我々のような若い世代は、もはや田舎でさえ特別の関心でも払わなければこうした地域や共同体を意識せずに暮らせるような社会にいたりする。けれど、波伝谷の人びとが直面し試行錯誤する課題は、決して今だけの課題ではないはずだ。
波伝谷の人びとが伝統的な暮らしの中で少しずつ変っていこうとしていたように、そして今は復興の過渡期を過ごしながら新しいコミュニティを作ろうとしているように、我々も地域や共同体という課題に取り組む日が来る。
だから、若い人にこそこの映画を見て何かを感じてもらいたい。ひとまずそこから何かを得られなくても、それぞれ魅力的な話を語ってくれる登場人物の中には、きっと惹かれる人が見つかるだろうと思うからだ。
ぜひ1度、映像の中の波伝谷の人に会って、その話に耳を傾けてみてはいかがだろうか。
(フェイスブック掲載版より一部文章改訂)
谷津智里(やつ・ちさと)
『波伝谷に生きる人びと』を初めて見たのは今年の3月。監督の出身地であり、私が現在暮らしている白石市のフィルムコミッションが開催した上映会でのこと。
「白石に映画監督がいるらしい」。
最初はその程度の興味で足を運んだというのが正直なところでした。当日も別件が長引いてしまい、10分ほど遅れて会場に到着。会場は満員で、一番後ろにパイプ椅子を出してもらって手すり越しに見るという、悪条件での鑑賞。
ところが映画を見るうち、「すごい、これはすごいぞ」とどんどんのめり込み、気づいたら、手すりを避けるために立ち上がったまま最後まで見ていました。
ドキュメンタリー番組はたくさん見たことがあるし、ドキュメンタリー映画もいくつか見たことはありますが、こんなにも「自然体」を撮った映像は見たことがありません。大抵は、制作者が撮りたいものに従って断片的に人びとの姿が撮られている。でもこの映画に映っているのは、「そこに生きている人間そのもの」です。しかも、都市部ではなく、一般に結びつきが濃厚で閉鎖的と言われる三陸の集落。そこに暮らす人びとが、近所のおじちゃんおばちゃんのような気安さで普段の表情を見せてくれているのです。「結」とか「講」といった村の仕組みは、大学の授業で聞いた時にはなんだか小難しくてちっとも想像できなかったのに、それが私たちと同じ当たり前の、普通の人びとの生活として目の前に映し出されていました。
「ああ、これが、日本にもともとあった暮らしなんだ。私たちの姿なんだ。」
そう思って、私は感動を抑えることができませんでした。
2011年の9月から、私は被災地支援事業のお手伝いで三陸の沿岸部に何度かお邪魔させていただいたのですが、そこで驚いたのは、人びとの力強さ。津波であんなにもひどい目に遭ったのに、支援を待つだけではなく、その時自分にできることを、すぐにやる。使えるものは使って、なんとかする。その姿に東京育ちの私は圧倒されてしまい、支援するどころか、その精神をこちらが教えていただきたいという気持ちになりました。その力強さはたぶん、自然と向き合いながら生きる中で培われたものだと私は思います。
自然とともに暮らすというのは、決して牧歌的な世界ではなく真剣勝負。恵みをくれる存在でもありながら時には牙を向く自然を相手にしながら生活を維持していくこと。自然がもたらす偉大な財産をそこに暮らす人びとで分かち合いながら、お互いの関係を維持し、世代をつないでいくこと。それらに真剣に向き合っているからこのパワー、笑顔、苦悩。日本の農山漁村で、ずっとこうやって人びとは暮らしてきたし、今もそうして暮らしている人がいる。
今回、たまたま波伝谷は津波に襲われてしまったけれど、こうした暮らしは今、日本中で失われつつあります。被災地に限らず日本中で、これまで培ってきた暮らしが悲鳴を上げている。「昔はよかった」と単純には言えないけれど、かつてあった「普通の暮らし」とは何なのか?私たちは何を置いてきて、どこへ行こうとしているのか? 「波伝谷」の人びとの姿が、そう問いかけているような気がします。
「沿岸部で縦断上映をしたい」と監督からメールをもらった時、これは手伝わねばなるまい、とすぐに返信をしました。ここまでの上映会で多くの県内の友人が足を運んでくれましたが、「震災の映画かと思っていたがそうではなく、自分が育ってきた足下の世界を思った」という感想を寄せてくれた友人が数多くいました。山元町で上映会を手伝ってくれた友人も「鏡のような映画だ」というコメントをくれましたが、この映画は、時代の変化という津波にさらされている私たちを映し出す鏡なのかもしれません。
これからも、日本で生きる多くの人びとに届くことを願っています。
工藤寛之(くどう・ひろゆき)
大津波が東北の沿岸を襲ったあの日、私は後に「被災地」と呼ばれる街の公共施設で働いていた。幸い、当時の職場は高台にあり、停電でいつもより深く沈み込んだ夕闇の中、それを突き破って吹き上がる製油所の爆発炎を頼りに、関係者と避難者への対応策を話し合った。その後、私は災害対策本部の支援に入り、NPO の職員として県外から怒涛のように押し寄せる被災地支援活動のコーディネートにあたった。
その時から、私は支援者と呼ばれる立場になった。
その仕事は私に苛烈な負担を強いるものであった。平凡な毎日を繰り返していた風景は、思い出すにも痛撃を伴うトラウマに変わった。とにかくガレキからそれまでの社会や暮らしを1ミリでも引きずり出そうと躍起になった。しかしそれを繰り返しているうち、自分の仕事に大きな疑問を持つようになった。
被災から数か月も経つと、復興と言うあやふやな言
葉の中に「新しい社会をつくろう」「イノベーションを東北から」という、いかにも耳心地のよいフレーズが聞こえ始めた。それはまるで3.11 以前の浜の暮らしがいかにも時代遅れで、後進的で、ともすると社会発展の阻害要因だと言わんばかりのものであった。さらに県外、特に首都圏の方からは、三陸の人びとが津波の常襲地帯に暮らし続けることに「なぜ海の近くでまた住もうとするの か」「さっさと安全な街に引っ越せばよい」という、至極「合理的」で不満めいた疑問が鳴り響いてきた。
それらの言説に、私は猛烈な怒りと違和感を覚えた。
被災前の浜の暮らしは、自然を相手に恵みをいただき、それを黙々と前述の「合理的」発言者たちの糧とすべく送り続けてきた歴史の積み重ねである。そして、厳しい自然環境と対峙し、一方で深い覚悟をもってそれを受け入れてきた豊かな時間の大いなる塊である。“故郷は人格の一部である”という言葉。それが真なれば、そうした「合理的」な人びとの発言は、莫大な支援を被災地へよこす一方で、そこに暮らしてきた人びとの尊厳を無意識に犯しているということになる。こうした風潮に私は慄然とした。そんな意識を抱えて浜辺の街で働いていた時、山形国際ドキュメンタリー映画祭で『波伝谷に生きる人びと』と出会った。
溜飲が下がる思いがした。
この作品には荒れ果てたガレキの光景など微塵も映らず、代わりに山海の恵みを「契約講」などの仕組みで分かち合いながら、変化の時代に翻弄されても懸命に生きる、瑞々しい生活者の姿と風景が刻まれている。被災前の三陸社会の明暗を織り込んで、その作品は訥々と「浜の暮らし」を語り続ける。
県外からの支援者が更地になった光景を目にしてよ
く言う、「何もないですね。」と。冗談ではない!失ったものは数多かれど、そこにはそうした暮らしが確かにあかにあり、それへの誇りと記憶はまだそこにある。だからこそ、多くの人が仮設住宅からそれでも海へ向かう暮らしを取り戻そうと呻吟しているのだ。作品は無論、結末として大津波を予期して撮られたものではないが、だからこそ、更地に眠る営みと暮らしの伏線を鮮やかに浮き彫りにしてくれた。
とは言え、無論、この作品は3.11 の惨劇を宿命的に抱えざるを得なくなったことも確かだ。しかし制作者(人)の意思とは無関係に巨大な力ですべてを凄絶な破壊に巻き込むのが災害であり、その意味ではこの映画もそれに巻き込まれた当事者の「一人」だ。故に、この映画にはそれ以前の暮らしと、今や失われた景色を雄弁に語らしめる特別な説得力がある。もっと言うならば、その資格がある。災害が起きてからの観察レポートなら誰でもそれなりに言語化できよう。だが時間の不可逆性を追体験できるこの作品だからこそ、その破壊の意味と、それでも海を目指す人びとの誇り、営みの重い価値を心の底から知ることができるのだ。
災害を語るには、その前の営み、暮らしを知ることが不可欠だ。そして「被災者」と呼ばれる人たちは、大津波に遭っても途切れなかったその“営みの連なり”を避難生活の末にいくらかでも取り戻せたとき、はじめて復興をその胸に抱きしめることができる。そしてそれはすなわち、災害から自らの人生を取り戻す瞬間でもあるのだ。
ぜひ、一人でも多くの方に「波伝谷に生きる人びと」をご覧いただき、三陸の営みの重さと素晴らしさ、そしてそこから紡がれる物語を確かめていただきたい。心から願う。
富田万里(とみた・まり)
【出会い】
6月のイベントは、ふるさと宮城の映画上映会にするべ!と思い立ち、ネットで検索したのが今年3月中旬のこと。
震災後4年目を迎え、被災地とは遠く離れた佐賀の地において震災の記憶がどんどん風化していく中、宮城県人である私としては、せめて身近な人びとの気持ちが忘却に向かうことだけは食い止めたい、そのためには宮城の魅力を伝えることでみんなの気持ちをつなぎ止めて希望をつないでいきたいと思っていたのでした。
「震災までの3年間を追った記録映画『波伝谷に生きる人びと』」(宮城県復興応援ブログ:ココロプレスの2014年1月20日付記事)というタイトルを見つけた時には、コレだ!と思いました。震災前の映像だから三陸の昔ながらのきれいな風景が見られるはず、震災前の映像はちょっと珍しいかも!とワクワクしながら、私はすぐに我妻監督にメールしました。そして監督も即DVDを送ってくれました。
自宅のテレビで観た映画は、私の期待を裏切らないものでした。
私が長年食べられずいつも恋焦がれていたホヤをはじめとして、カキ、ウニ、ワカメなどの海の幸、田園の緑色、美しい夕焼け、ノスタルジーをかきたててくれる桑の実。風のそよぎすらも体感した気分になり、「あ~、ききれいだね~」と何度もため息まじりに呟きながら観た
のでした。そして、それらのアイテムの揃った美しいセットに登場する人物たちによるこのドラマにおいて、彼らは決して役を演じている訳ではないのですが、発する言葉や自然な表情や動作にいたるまでが魅力的で面白くて、皆その存在感がずっしりと重いのです。生まれも育ちも仙台であるひ弱な都会人の私は、彼らの中に自分より少なくとも10%増ほどの生命力を感じて圧倒されてしまいました。2008年から震災までの3年間撮り続けた映像と、その後起こってしまった震災という運命的なめぐり合わせについては発する言葉も見つからないほど衝撃を受けるのですが、それは紛れもなくどうしようもない事実です。ならばこの映画をたくさんの人たちに観てもらいたい!という使命感のような気持ちが湧き起こってきたのでした。
「我妻さん、これは本当に貴重な映像ですから、ぜひ上映会したいです!」
と私はメールの中で叫びました。3月27日のことでした。
【九州にて、そして宮城県沿岸部縦断上映会へ】
こうして我妻監督とのやりとりが始まり、6月20日(金)に佐賀市シアターシエマにて、宮城県人会さが主催による上映会を開催することになりました。そしてその上映会と映画の予告編に興味を持ってくれた佐世保の友人にもお願いし、22日(日)には佐世保市民会館にて、肥前地域文化研究所主催による上映会も開催されることになりました。2つの上映会とも70名~80名のお客様が鑑賞し、遠い東北の地に思いを馳せながらの和やかな上映会となりました。
人とつながり、また人と人をつなげながら自分を充電させて活動している私の特性を、我妻監督は見事に見抜き、上映会終了後も引き続き「応援団」として宮城県沿岸部縦断上映会の実行委員の一人になって欲しいというリクエストをして下さいました。我妻監督曰く、「富田さんがいるというだけで何かよく分からないパワーをもらえるような気がします・・・」ということで、自分に何ができるか分かりませんでしたが、佐賀より「何かよく分からないパワー」を皆さんに与えるべく、私は実行委員を引き受けたのでした。
乗りかけた船だから無事に航海を全うするまで自分にできることでお役に立ちたい、という使命感と、自分が惚れ込んだこの映画が宮城の沿岸部11市町においてはどのように受け入れられるのか知りたい、宮城にもっともっと関わりたいという欲求、そんな感情に満ち溢れての船出でした。
【波伝谷の人たちと一緒に観る~東松島市・石巻市両上映会にて~】
そのような訳で、佐賀にいながらにして宮城の友人・知人に上映会の当日運営をお願いする傍ら、宣伝のため2度のラジオ番組にも出演。そしてついに4日間の日程で宮城入りした私は、東松島市(8/16)・石巻市(8/17)の2つの上映会に参加。地元の方々と同じ空間で映画を観る事ができる喜びを噛みしめていました。どちらの会場にも波伝谷出身の方、近隣の集落の方、親戚や知人が映画に出ているという方・・・が来場して下さっていて、緊張感が漂うピーンとした空気を感じました。どなたもスクリーンを真剣なまなざしで観ておられました。
私の近くの席に座った女性は、映画の始まりからハンカチで顔を覆って涙をぬぐいながら観ていました。映画に登場する人たちが親戚であったり親しくしていた方々なので感無量だったそうです。何度も何度も登場人物の方のお名前を呼んで、その後は言葉にならない彼女に、私はそっとその方の肩に手をやることくらいしかできませんでした。また波伝谷の隣の集落に住んでい たという男性は、映画のさまざまな場面に自分自身のこれまでの生活を重ね合わせていた様子で、映画の途中も、終わってからのトーク場面でも、ずっと聴き役を求めてしゃべり続けていて、会場を出てからもまだまだしゃべり足りなかった様子でした。
三陸の沿岸部の会場で波伝谷の方たちも交えて、波伝谷の人びとが映し出されるスクリーンを観ること。その空間には、それなりの覚悟をもって一生懸命観てくれるお客さんとスクリーンの中から語りかける懐かしい風景や人物、双方向からの思いが合わさって、調和したり化学変化したりする感じでした。この2会場で私が感じたものは今後も大切にしていきたいものです。
【これからも静かに波紋が広がるように・・・】
「今回の上映会が、被災地の方々にとって、今一度かつての故郷のあり方を見つめ直し、新たな地域社会を創り出すための一助になることを願う。」
これは、我妻監督が今回の縦断上映会に先立ち作成した事業企画書の一文です。これからも静かに波紋が広がるように、私もこの映画の応援団として、佐賀から「何かよく分からないパワー」を駆使して人から人へと伝えていきたいと思います。(富田万里 佐賀にて)