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南三陸町と波伝谷のくらし

南三陸町と波伝谷

 

 映画の舞台である波伝谷(はでんや)は、宮城県の北東部に位置する本吉郡南三陸町にある集落です。南三陸町は、太平洋に面した人口14,000人余(※1)の町で、沿岸部はリアス式海岸として特徴ある景観をもち、国定公園に指定されています。目の前に広がる志津川湾や伊里前湾では、地形の特性を活かしたカキやワカメ、ホヤなどの養殖漁業が盛んです。

 そんな豊かな漁場を抱える三陸沿岸に突き出す、戸倉半島の北側に波伝谷はあります。震災の1年前である平成21年度末では世帯数81戸、人口268人(※2)と、南三陸町内のわずか1.5%を占める小さな集落でした。その地名は、大昔に神様の乗った舟が大波で運ばれてきたことに由来し、「船が波に転しられてきた谷」が「波転谷」となり「波伝谷」になったという話が伝わっています。

 正面に広がる志津川湾はさまざまな養殖いかだが並び、背後には300メートル級の山が連なる海と山に囲まれた自然豊かな土地です。人びとは、海に近い平地に集落と田畑を作り、そこから船で養殖いかだや漁場にでかけていました。

 

 

海と陸のなりわい

 

 志津川湾に面した波伝谷の主要産業といえば養殖漁業です。複数の河川が流れ込む湾内は養殖に適しており、カキ、ワカメ、ホヤなどの養殖が盛んに行われています。10月~3月頃まではカキ、1月頃~春先にワカメ、5月~8月頃までホヤと1年を通して旬を迎える海産物があります。また1年のうち決められた日だけウニやアワビの採集が許可されます。

 波伝谷で養殖が盛んになったのは昭和35年頃といわれ、それ以前の主要産業といえば意外にも漁業ではなく、背後にある山林を利用した製炭や、自家で行われる養蚕などといった陸のなりわいでした。こうした産業の他、多くの家が集落内に田畑を所有して農業と漁業を行っていたといいます。波伝谷には豊かな海とともに豊かな山があり、限られた土地と自然を活かし、うまく調和させながら生活してきたのです。

 

 

契約講

 

 波伝谷には、約80軒の世帯数のうちの半分が加入する契約講という社会組織があります。契約講は、村内や講員のための共同作業を行ったり、春祈祷をはじめとする波伝谷の祭礼を取り仕切ったりするとともに、山林や萱野といった共有財産の利用を行うなど、部落の中心的な存在でした。

 しかし、結成当初こそは全戸加入だった契約講も、共有財産の配分の関係から増加する世帯に対応できず、加入できない世帯もでてきました。そうした家々はそれぞれの主旨で親興会や波伝谷会といった組織を作り親睦を図りました。

 このように部落の中心であった契約講の役割は生活様式の変化も相まって限定的となりつつあり、変化の過渡期にあったのです。

 

※「部落」の語について

 波伝谷をはじめ宮城県の農山漁村部では、現在でも集落や地区のことを愛着を持って「部落」と呼びならわすところが多くあります。監督自身は、そうした現地の人が愛着を持って使う「部落」という言葉のニュアンスを大事にしたいと考え、あえて言い換えを行っていません。以下の文章でも、そうした目的に沿った形で「部落」という言葉を使用します。

 

 

人と人とのつながり

 

 波伝谷では、同姓の家が多くあるため、名字とは別にヤゴウと呼ばれる家毎の通称を用いて呼ぶことがあります。ヤゴウは、その家の場所や家業などの特徴を示す言葉が選ばれ、日常的に使用されていました。

 また波伝谷では、日常の農漁業などで人手が必要な作業の時、主に親類や隣近所、気の合う仲間などに頼んで手伝いをしてもらい、手伝ってもらった作業を相手の家でも同じく手伝いをするユイやユイッコと呼ばれる慣行がありました。さまざまな作業が機械化した現在でも行われることがあるこうした互助の関係は「人は一人では生きられない」の言葉を現実に体現して続いてきた、かつてのムラの生活の知恵でもあったのです。

 

 

波伝谷の春祈祷

 

 波伝谷で最大の行事といえば、3月の第2日曜日に行われるオススサマ(お獅子様)こと春祈祷です。これは契約講を中心に行われる春を迎え入れるための悪魔祓いの行事で、獅子舞が部落全戸を回る波伝谷挙げての行事となります。春祈祷の前日には、契約講をはじめ、親興会や波伝谷会の総会も行われるため、この時期は波伝谷の1年において最も重要な時期といえます。

 各家々では、獅子舞一行を迎えるため個性豊かな料理でもてなします。また子供達も各家を回ることでお菓子などをもらい、部落内の家々の特徴を把握していきます。このように獅子舞を舞う側、それを迎える側はもちろん、大人から子供にいたるまであらゆる世代が主体的に関わるのが波伝谷の春祈祷です。

 

 

波伝谷と震災

 

 東日本大震災が発生した2011年3月11日は、部落の総会と春祈祷を控えた日のことでした。津波により約80軒あった集落は壊滅し、16名の方が犠牲になりました。

 人びとは波伝谷の外れにあった県の施設・志津川自然の家に避難しましたが、4月はじめの集団避難とともに多くの人が波伝谷を離れ、それとともに契約講などの社会組織も活動を休止することになりました。

 5月に入ると南三陸町の所有地に仮設住宅が建ち始めましたが、それらは町民全体を対象にした抽選だったため、多くの地域ではコミュニティの分断が起こりました。波伝谷の人びとも例外ではありませんでしたが、8月頃に波伝谷の住民が提供した土地に専用の仮設住宅が作られ、こことその周辺の仮設に元の半数以上の住民が戻ることになりました。

 その後契約講や春祈祷も復活し、震災から4年を経てようやく高台造成地に新居をかまえる家も出てきましたが、人口の減少や高齢化などから元々のコミュニティの維持が困難となり、今地域は新たな過渡期を迎えています。

 

 

※1「南三陸町統計書平成26年度版」南三陸町

※2「南三陸町統計書平成25年度版」南三陸町

参考文献『波伝谷の民俗ー宮城県南三陸沿岸の村落における暮らしの諸相ー』

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